翻訳の再翻訳による「洗いなおし」
「これはなかなかよく練られた訳だとは思うが、この英文から逆方向にオリジナルの文章を見つけ出すのは−もちろんそれができるできないは翻訳の価値とは直接的には無関係なわけだが−やはりむずかしいだろう。でも、これは僕の個人的感想だけれど、英文翻訳で吉行淳之介の短編を読むのは面白かった。変なたとえかもしれないが、クラシック音楽の古楽器演奏にも似た「洗いなおし」風の面白みがある。」(p.258-259)
村上春樹『やがて哀しき外国語』の中の「さらばプリンストン」の一節です。
プリンストン大学のセミナーで吉行淳之介『樹々は緑か』の英訳本を読んで学期末のペーパーを書いた学生がいたが、日本語のオリジナルは学生も筆者も手元になかったので、仕方なくその学生から英訳本を借りて読んで採点した時の話です。
よくできた翻訳とは思うものの、これを日本語に再翻訳したらオリジナルにどのぐらい近く、あるいは遠くなるのかと思い、筆者は再翻訳して、オリジナルと比べてみたとのことです。
実際にその再翻訳とオリジナルとの比較例が挙げてありました。
比較した結果、雰囲気が違っている、原文では過去形と現在形が混合しているが英文では全部過去形になっている、漢字の字面の「気分」が出ていない、
文体のコリコリさが出ていない、ということです。
「洗いなおし」という言葉に留学生の作文のことを思い起こしました。
作文の授業の宿題では主に、留学生に作文を書かせて、それを読んで添削しています。
文法も語彙の使用も正確で言いたいことの意味もわかるのに、何だがしっくりこない文章に出くわすことがあります。
そのしっくりこないことを「日本語らしくない」と切り捨ててしまっていいものか、ずっと疑問を抱いています。
では、そのしっくりこない文章は日本語として通用しないのか、日本語のあり方の一つとして認めてはいけないのか、ということです。
決して大まかな意味さえわかればどんな日本語表現でもかまわないというのではありません。
何でもありの日本語表現ではなく、日本語の言語使用の可能性の幅をどのように広げるのか、という問題です。
「しっくりこなさ」の原因究明はその幅を広げてくれそうな気がするのです。
留学生の作文の文章構造や表現を分析するのは、日本語表現の「洗いなおし」に通じるのではないでしょうか。
しっくりこない理由を具体的に明らかにするのは母語話者と非母語話者の言語使用の比較研究として興味深いものです。
作文の授業でもそのようなしっくりこない理由が留学生に具体例とともに説明できれば、日本語表現への理解の幅が広がることでしょう。
・『やがて哀しき外国語』村上春樹、講談社(講談社文庫)、1997年
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1997/02/14
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