BLOG文章表現

日本語教育、留学生の作文教育、日本語の文章や表現の備忘録です。

事実と意見の間

学部留学生の作文の授業で、説明文と意見文の書き方について取り上げた。
教科書に沿って、事実と意見の表現の特徴と典型例を簡潔に説明した。

この「事実」と「意見」の区別だが、毎度この説明の時に違和感を抱く。
というのは、文章は前後の文脈で意味が変わるはずなので、その文だけの「事実」と「意見」を二項対立のように白黒つけられないからだ。

例えば、以下のような例を考えてみる。
「この近くに竜巻が来て、かなりの被害を受けた。」
「この近くに竜巻が来て、かなりの被害を受けた。100棟以上の家屋が損壊した。」

今日の授業の作文教科書の説明を当てはめると、「かなりの」があいまいな表現となり、事実の述べ方としては問題視される。
だから、数値などを示した具体的な表現にすべきだという論調で説明してある。

しかし、この文の直後に、数値の説明をすれば、「かなりの」という評価は根拠を明示されることになるため、あいまいな表現とは言えなくなるはずだ。
作文で文の意味・機能を取り上げるなら、1文のみの判定基準ではなく、複数の文による文脈の展開に基づいて取り上げたほうが文章作成の説明には適う。

この教科書に限らず、事実と意見の区別は、文連続の文脈展開の中で位置づけるべきではないだろうか。


さらに、事実の述べ方で引用と事実に関して気になることがある。
引用される事実について、事実の内容自体の検討、すなわち引用元のデータ検証が必要ではないだろうか。

事実とされるデータの信憑性が検討されることなく、安易に論拠として引用されていることがある。
これは学生の作文だけではなく、ツイッター、ブログ、ホームページなどインターネット上の文章も、プロの書き手の文章の新聞や雑誌の記事も、テレビやラジオの報道も該当する。
研究者など専門家と言われる人々の文章も含まれる。
いわゆる「権威」が言っているから信憑性があるわけではない。
情報源の信頼性は情報の内容の信憑性を判断する根拠の一つとはなっても絶対的なものではない。

引用された事実の再生としては、例えば、マスコミで報道された記事の内容が事実として様々な文章に引用され、転用されている。
しかし、その報道された記事内容の検証はどのようになされるのだろうか。
無邪気な書き手は読んだり聞いたり見たりした内容をそのまま「事実」として引用する。
そのようにして、「事実」は再生産され、確固たる論拠として世間に出回る。


また、ある出来事そのものが情報として取り上げられないまま放置されることがある。
口コミ情報や実際に見聞きしたことが、マスコミや公の機関の発する情報とは異なる場合がそれにあたる。


「事実」は表現からそれが指す内容まで複眼的にとらえてはじめて文章の中で生きてくる。